top of page
Facebook天童地域おこし協力隊2022.6.15.jpg

​地域の歴史

縄文のころ

縄文のころ

天童高原の緩傾斜地、押切川の段丘の上などに複数の遺跡が発見されており、その中の一つ、かくまくぼ遺跡からは模様の入った土器(早期の沈線文絡縄体痕文)が発見されています。
一方、天童高原からは石器が多く見つかっていることから、生活に安定性が少なく、狩猟生活が主流ではなかったかと考えられています。田麦野一帯は古代においても住みやすい環境だったようです。

​集落の起源

元和9年(1623年)の地検では、山形城主鳥居家の支配地として記録されています。

なぜこの地に集落が生まれたのか、記録が残っていないため定かではありませんが、武士の隠遁集落なのではないかという説が伝わります。天正の頃(1573~1592年)、山形最上家との戦いに敗れた天童家の家臣が各地に逃れ、そのうちの一団が押切川をのぼって田麦野に隠れ住んだというものです。

集落の起源
面白山信仰

面白山信仰

面白山は奥羽山脈の火山で標高1264m、山形市と仙台市の県境に位置し、田麦野からは白く輝く山肌を仰ぎ見ることができます。登山の山として人気がありますが、昔は信仰の山として多くの参拝者を迎えていたといいます。その面影を残すのが、現在の天童高原に立つ「締め掛けの松」です。田麦野から面白山へ向かう道中にあり、参拝の帰りにしめ縄をかける習わしがあったそうです。 現在は田麦野自治会役員により作成される7mのしめ縄が5月の開山祭でかけ替えられています。

地区内には全部で46もの「屋敷神」が祀られています。家の敷地内や近隣の山、田畑の中に社や祠、自然石の形で祀られている屋敷神がなぜこんなにたくさんあるのか理由ははっきりと分かりません。しかし、山の恐怖と恵みを十二分に熟知し暮らしてきた人々が、水源をもつ面白山に「山の神」を見出し、また参道となっていることも関係して厚い信仰心が育まれていたと推察すると、屋敷神は自然への厚い畏敬の念から生まれたと言えるかもしれません。

現在でも屋敷神の周りに木が切られず残り、鎮守の森のようになっている場所が残っています。その風景自体が、静かに歴史を物語っているようです。

雪をかぶる面白山と大畑山
田んぼの中に立つ屋敷神

​雪をかぶる面白山と大畑山

​田んぼの中に立つ屋敷神

野田平の開墾

野田平(現 天童高原)の開墾

山あいの田麦野では農地が限られていたため、明治の後期に開拓されたのが野田平、現在の天童高原です。成生村(現在の天童市成生地区)や田麦野村から数人が現在のロッジ近くに仮の住居を建て耕作を進めていました。「井戸は現在のリフト下駅付近に掘ったが思うように出ず、ロッジ東側のミヨウツタの沢水を竹樋でもってきた。切り開かれた畑地は、今の野田平山荘の周辺と、スキー場に使われている斜面あたりで、リフトの上駅と下駅の中間の斜面は桃畑になっていて、春先きには桃源郷の思いをしたという。じゃがいも、大豆、小豆が主な作物だったが様々な作物が作られていた。」という語りの記録が残されています。
その後、昭和20年代まで村のカヤ刈り場としての役割を担っていましたが、時代とともに再開発が行われ、スキー場とキャンプ場が整備され現在に至ります。

産業の面影

産業の面影

 養蚕

養蚕は明治後期から始まったとされ、地域には蚕のえさを栽培するための桑畑が広がっていました。屋内の温度の変化が緩やかという理由から「養蚕農家は、屋根はかや葺に限る」といわれ、昭和17年の大火にあうまではかやぶき屋根が主流でした。また、旧公民館の向かいに稚蚕共同飼育所が昭和44年に設けられ、地域を上げて養蚕が行われていましたが、海外産の安価な絹が出回るようになると養蚕は行われなくなりました。大きく成長した桑の木が当時を物語っています。

​ 炭焼き

​元稚蚕共同飼育所

​元稚蚕共同飼育所

宝暦10年(1760年)の記録によると、12口の炭がまがあったと記録があり、10月~3月にかけて製炭に従事し、天童や山形の市場に搬出して売り捌いていたとみられます。
昭和35年頃の高度経済成長期以降、炭焼き産業は大きな打撃を打け、炭焼きと林業は行われなくなりました。

​ぽんぽこ塾で作成した炭焼き

​ぽんぽこ塾で作成した炭焼き

現在、炭焼きの文化を受け継いでいこうと、市立高原に里交流施設ぽんぽこの自然体験教室「ぽんぽこ塾」では炭焼き体験が行われています。毎年、竹やハス、果物、ビスケットなど創意工夫しながら多くの方が製作を楽しんでいます。

bottom of page